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51%の真実

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小池百合子の研究

Category - 人物研究
 ニュースキャスターという肩書もあり、どうやら私は「小池百合子」と「小宮悦子」のイメージを混同してしまっていて、小池氏がどのような人物なのかいまいちピンと来ていなかった。そこで今後の小池氏の動向を注視するために、自分の記憶の整理も兼ねて「小池百合子の研究」を書いておきたい。

 以下のWikipedia情報を見ても、小池氏のここぞというタイミングを見分け、国民が何を欲し自分が何をすべきかどう発言すべきかを嗅ぎ取る嗅覚は、非常に優秀であると思う。自由党の参議院議員だった平野貞夫氏が評した「機を見るに敏な才能の持ち主」は実に的を射た言葉であろう。脱線してしまうが、小池氏の小沢一郎に対する評価については「全くその通り」と拍手したい感じだ。

 最近は影が薄くなっていたのだが今や第20代東京都知事となり、おそらく日本中で知らない人はいないのではないかと思われる程の知名度と人気を誇っている。

 今後、小池氏の新党結成は大いにありえ、タイミングを慎重に見極めている状況だと思う。そしてそれは小池氏の余程の失態や世の中の空気感の方向転換が無い限り、民進党の保守勢力と自民党の一部を取り込み大阪維新の会の東京バージョンとして、日本の右傾化の波にも乗って勢力を拡大していくものと予想される。

 そしてそれにより最も被害を受けるのが民進党であり、日本のリベラル・左派の勢力は存亡の危機に瀕することだろう。またその時は、橋下氏が活動を再開している可能性が高い。

--Wikpedia概略情報--
 小池氏は1952年(昭和27年)7月15日生まれで、テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」の初代キャスターを経て、1992年に政界へ転身した。「日本のジャンヌ・ダルク」を自称している。
 1979年から1985年まで、日本テレビ「竹村健一の世相講談」でアシスタントキャスターを務めた後、1988年よりWBSの初代メインキャスターを4年3カ月間務めた。(WBSは何となく記憶があるのだが、それ以前はまったく覚えていないなぁ。)

政党遍歴
 日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と5つの政党に所属し、「政界渡り鳥」と呼ばれることがある。ただし、日本新党、新進党は党そのものが解党しており、自発的な離党は自由党および保守党を離党した時である。また、自由党からの離党は自自公連立政権からの離脱に反対したためであり、海部俊樹、扇千景、野田毅、二階俊博など小池を含めて26名の議員が共に離党している。
 小池は『文藝春秋』(2008年1月号)への寄稿で、「政界再編の荒波の中で生きてきた結果、自慢にはならないが、新党の立ち上げはお手のものだ。党名、綱領、政策、キャッチフレーズに、党名ロゴ作りまで、三日もあればまとめる芸当さえ身に付けたが、もうたくさんであると回想している。2016年7月に東京都知事選挙への立候補を表明した際には、「このところいろいろと私のこれまでの経歴などをご紹介いただく放送などを見ていて、『政党がコロコロ替わる』というようなご指摘もいただいている。しかし、改めて申し上げると、それは政党の離合集散の結果であって、政党名が変わっただけであって、私の主張、思想、そして信念は一度も変えたことがない。改めて思うと、政党というのはあくまで機能体であって、仲間内の運命共同体ではないと思うと自ら説明している。

所属政党
 日本新党→新進党→自由党→保守党→保守クラブ→自由民主党(町村派→無派閥)
 
衆議院議員
 選挙区
 旧兵庫2区→兵庫6区→比例近畿ブロック→東京10区→比例東京ブロック→東京10区
 当選回数 8回
 在任期間 1993年7月19日 - 2016年7月14日

参議院議員
 1992年7月26日 - 1993年7月4日

--Wikpedia詳細情報--
細川政権~離合集散時代
 1992年 第16回参院選で「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由で、日本新党に入党し比例区から出馬して参議院議員に初当選。
 1993年 参院議員を任期途中で辞職。第40回衆院選に旧兵庫2区から日本新党公認で出馬し当選した。同年、細川内閣で総務政務次官に就任。
 1994年 日本新党の解党に伴い新進党結党に参加。
 1996年 第41回衆院選で、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区から出馬し再選。
 1997年 新進党解党後は小沢が党首を務める自由党の結党に参加。
 1999年 小渕第2次改造内閣で経済企画政務次官に任命され、第1次森内閣まで務める。森喜朗首相らと共にロシア大統領ウラジーミル・プーチンと面会(2001年3月)
 2000年 自由党分裂に際して小沢と決別し、保守党結党に参加。
 2002年 保守新党結成を前に保守党を離党し、保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。

小泉政権時代
 2003年 第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に任命され初入閣。同年の第43回衆院選では、比例近畿ブロック単独で立候補し4選。第2次小泉改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。環境大臣は第3次小泉改造内閣まで務め、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役を務める。
 2005年 第44回衆院選では、郵政国会で郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起(先の参院選で国民怒りの声から東京都選挙区に立候補も落選)の当選を阻止するため、東京10区に刺客として国替えする意向を表明。この総選挙では比例区名簿で上位に置かれるも、対立候補からの事実上当選が確実な状態の指摘により、選挙区での戦いが不利になることを懸念し優遇の措置を辞退。選挙の結果、民主党の鮫島宗明や小林を大差で破り5選。

第1次安倍政権時代
 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に任命後、2007年7月3日防衛大臣に起用された。在任期間は2007年7月4日-2007年8月27日と短期間。
 2007年8月には、米下院慰安婦決議問題で安倍首相、麻生外相とともにアメリカを電撃訪問。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は"日本のライス"と呼ばれているようですが、日本でライスは米(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした。
2007年8月24日、イージス艦機密情報漏洩事件に言及。「防衛省内で誰も責任を取っていない。私は責任を取りたい」と述べた上で、3日後に行われる内閣改造で自身の再任を固辞し、防衛大臣を離任する意向を表明。

野党下野時代
 2009年 第45回衆院選は、東京10区で江端に敗れたが、比例で復活当選。

第2次安倍政権時代以降
 2012年 第46回衆院選は、東京10区で前回敗れた江端を大差で破り7選。
 2014年 第47回衆院選は、東京10区で8選。

外交・安全保障
 2003年11月、毎日新聞の衆議院議員アンケートで、日本の核武装について「国際情勢によっては検討すべきだ」と回答。

表現規制
 国会議員時代は「マンガやアニメ、映画、ゲームにおける描写を規制する青少年健全育成基本法案」の請願を国会に提出。

無電柱化
 自民党無電柱化小委員会の委員長として日本全国の無電柱化を推進し、「無電柱化推進法」の成立を目指している。

防衛事務次官更迭問題
 防衛大臣時に、防衛事務次官守屋武昌を退任させる人事案を作成。小池は人事案の撤回を迫られ、安倍・塩崎らは守屋留任でも西川でもない「第三の案」を小池に要求し決着させた。なお守屋は事務次官を退任後、国会での証人喚問の後に逮捕起訴された。小池は「オンナの直感で"これはよろしくない"と思った」と述べた。

臥薪嘗胆ヘアと断髪式
 自民党が政権を失った後、政権に復帰するまで髪を切らないと宣言し、自ら「臥薪嘗胆ヘア」と名付けた。
 2012年12月16日の衆院選で自民党が政権に復帰し、小池自身も2期ぶりに小選挙区からの当選を果たした。この結果を受け同年12月19日、「断髪式」が行われた。

政治資金
 朝日新聞は2007年11月26日、政治資金収支報告書において2003年から4年連続で繰越金が0円だった団体の一つに小池が代表を務める政党支部を挙げた。小池の事務所は、「実際にかかった費用を積み上げ、法にのっとって適切に処理した結果だ」としている。
 産経新聞は2016年7月4日、小池が代表を務める自民党東京都第10選挙区支部が、支援者が所有するビルの一室を相場価格の半額ほどで賃借しながら、差額を寄付として政治資金収支報告書へ記載する義務を怠っていたと報じた。神戸学院大学教授の上脇博之は「政治資金規正法に抵触する可能性がある」と主張。小池の事務所は、「提示された金額を見て借りることにしたので、寄付という認識は全くない」と説明し、産経新聞の報道内容への反論をおこなった。

小沢一郎に対する評価
 新進党、自由党に在籍していた約6年間に小沢一郎を支持していた理由について、「小沢さんが九三年に刊行された"日本改造計画"に大変な感銘を受けたからだ」と説明しながらも、「ところが、小沢さんが掲げた改革を断行し、護送船団の社会構造を廃して自己責任の社会を実現しようとしたのは小沢さんならぬ、小泉純一郎元総理その人であった」と評している。小沢の政治手法については、「極論すれば小沢氏の政治行動の基準は、わずか二枚のカードに集約されると。それは"政局カード"と"理念カード"である。具体的にいえば、"政局カード"とは持論である政権交代という錦の御旗を立てることであり、"理念カード"とは安全保障を中心にした政策構想である。小沢氏というと政治的駆け引きに長けているように見えるが、決してそんなことはない。むしろやり方はシンプルだ。自民党を離党し細川政権の樹立から今日まで、手の内のカードはこの二枚を駆使することに尽きる。ある時は"政局カード"を振りかざし、それが手詰まりになると見るや今度は"理念カード"を切る。この繰り返しである」と評している。
 また、小池が自由党を離党して保守党に参加し小沢と決別した理由については、「ここで連立政権を離れて野党になれば、小沢氏の"理念カード"によって、政策の先鋭化路線に再び拍車がかかることは想像できる。一方で、経済企画庁の政務次官の仕事を中途半端に投げ出すことには躊躇した」「少々心細くもあったが、実は"政局"と"理念"の二枚のカードに振り回されることにも、ほとほと疲れていた」「かつて小沢さんは、自由党時代に取り組んだはずの国旗・国歌法案について、自民党との連立政権から離脱するなり、180度転換し反対に回った。国旗・国歌法案は国家のあり方を問う重要な法案だ。政治の駆け引きで譲っていい話ではない。同じく外国人地方参政権の法案についても自由党は反対だったはずだが、公明党の取り込みという目的のために、賛成へと転じたことがある。国家の根幹を揺るがすような重要な政策まで政局運営の“手段”にしてしまうことに私は賛成できない。これが私が小沢代表と政治行動を分かとうと決意する決定打となった」と説明している。
 2012年の作家の大下英治によるインタビューで、「政策はあるけれども、それ以上に政局が第一なんじゃないかと。今回の新党(国民の生活が第一)でつくづく感じましたね」「小沢さんは政局を目的化しすぎ。政権をとったとき、いっていた政策と行動があまりにも違う」「小沢さんは細川内閣で2大政党制による政権交代可能な政治制度をつくるといって小選挙区制を導入した。小選挙区制度では新党をつくるのは不利だと一番分かっているのが小沢さんなのに、民主党を離党して4回目の新党をつくった」と述べた。
 週刊朝日による2012年のインタビューでは、「小沢さんを取り巻く人が抱く感情の変遷には、3段階ある。第1段階は、小沢さんを恐れ多く思う。私も「日本を変えるのは、そんじょそこらの人にはできないが、小沢さんならできる」と思っていた。第2段階は「すごい」と「えっ?」の間を行ったり来たりする。第3段階は「enough(もう十分)」と言って去っていく。新党についていったのは第1、第2段階の人。参加しなかったのは第3段階の人でしょう」と述べている。
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小池百合子 新党 人物評価

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